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あしあと

    阿見町名所百選 阿見第二小学校・本郷小学校地区(その2)

    • [2015年1月8日]
    • ID:790

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    阿見第二小学校・本郷小学校地区

    第二小学校・本郷小学校地区

    JR荒川沖駅に近いこのあたりは、交通の便がよく商業地も近いことから住宅地が広がっています。
    交通量も多く、陸上自衛隊の霞ヶ浦駐屯地からヘリコプターの訓練機が空へ飛び立っています。
    阿見第二小学校を起点にしたコースでかつての霞ヶ浦飛行場の名残をたどり、本郷小学校から阿見町出身の小説家・下村千秋ゆかりの地を回ってみましょう。

    阿見第二小学校・本郷小学校地区 名所百選(その2)

    4 下村千秋記念の地   5 北向道祖神   6 一乗寺  7 牛久助郷一揆道標

    ※各項目に貼られている地図は、名所百選の看板の位置またはその付近を示しています。

    ※名所百選はわかりにくいところにあるものがあります。詳しくは生涯学習課へおたずねください。

    4 下村千秋記念の地

    下村千秋

    下村千秋

    【上本郷/名所百選No.38】本郷小校校校門(説明板)

    下村千秋は明治26年(1893)、旧朝日村に父常松、母いわの二男として生まれました。

    本郷小学校、朝日尋常高等小学校を卒業後、旧制土浦中学校に入学。

    同級生には、後に劇作家として名を馳せる高田保がいました。

    成績は高田、下村と続き、中学まで五里(約20キロメートル)の道を通学しました。大正3年(1914)早稲田大学に入学し、大正8年(1919)27歳で卒業。

    この間、同人誌や郷土の「いはらき新聞」に多くの作品を発表しています。

    卒業後に一時読売新聞社社会部記者となりましたが、1ヶ月ほどで退社して作家活動に入りました。

    大正12年(1923)にひで夫人と結婚。昭和5年(1930)には東京都杉並区荻窪に本居を構え、本格的に作家活動に入りました。

    農民的な性格の中にヒューマニズムの色濃い作風が多いのが特徴で、大阪朝日夕刊に連載された『街の浮浪者(ルンペン)』によって、一躍ルンペン作家の異名を馳せました。

    数多くの作品を遺し、昭和30年(1955)63才で没しました。郷土を愛し『父を囲んで』『湖畔』『郷里の家、村』などの作品もあります。

    なお、夫人のひで氏の意向により、平成4年に、千秋の遺稿が町に寄贈されました。

    当時の図書館長、故寺田章氏の努力により、下村千秋文学コーナーが設けられ、阿見町の生んだ著名な文学者として永く後世に語り継がれるように配慮されました。

    本郷小学校の旧校歌は千秋の作詞によるものです。

    本郷小学校では、今も幹囲3メートル余の大ケヤキが千秋のおもかげを慕うかのように枝を広げています。

    5 北向道祖神

    北向道祖神

    【上本郷/名所百選No.33】

    北向道祖神は、阿見町大字荒川本郷から牛久市に向かう通り沿いのゆるやかな斜面にあります。

    本尊が北向きに安置されていることから北向道祖神とよばれ、近くを流れる乙戸川にかかる橋は、道祖神橋とよばれています。

    昔から道中の厄払いのほか、子どもの疫病除け、良縁結願、子宝祈願、病気平癒など、素朴な信仰の対象とされてきました。

    縁日は毎月6日で、赤飯を炊き供えて祈願します。

    患部が治るとそのお返しに真新しい木づちを納め、祈願のときは小石を祠においておくとよいとされています。

     

    6 一乗寺

    一乗寺

    【二区北/名所百選No.7】うずら野2丁目19 - 7

    円頓山(えんとんざん)本願寺一乗寺はうずら野にある真宗大谷派の寺院で、本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)です。

    宗祖親鸞(しんらん)、常如、聖徳太子像や、浄土七高僧の絵像なども安置されています。

    当寺は、文永2年(1265)性信房(しょうしんぼう)の弟子、常行房の開山と伝えられています。

    性信房は、浄土真宗の開祖である親鸞の二十四輩の筆頭で、俎板(まないた)びらきで知られる東京・上野の坂東報恩寺を開いた人物です。

    その子院が水海道市豊岡の坂東報恩寺で、一乗寺はその下寺の一つです。

    明治34年(1901)、開拓にともなって現在地に移ったといわれており、現在の本堂は昭和58年(1983)に新築されたものです。

     

    7 牛久助郷一揆道標

    牛久助郷一揆道標
    牛久助郷一揆道標

    【一区南/名所百選No.30】

    宿駅に常備する人馬では輸送に差し支えるとき、近くの村々を指定し、不足の人馬を提供させる制度が助郷(すけごう)制です。

    街道の交通量が増えるにつれて負担が増加し、宿駅と助郷の村々はともに困窮しました。

    文化元年(1804)、牛久宿問屋の麻屋は、助郷村々の範囲を拡大する趣旨の新しい助郷指定の願書を幕府に提出しました。

    これに対し、指定を受ける側の信太(しだ)・河内二郡55カ村の農民数千人が10月に立ち上がり、牛久助郷一揆を起こしました。

    指導者は小池村(現阿見町小池)の勇七、同村の吉重郎、桂村(現牛久市桂町)の兵右衛門の三人でした。

    農民たちは10月18日に女化原(おなばけはら)に集結し、20日久野村(現牛久市久野町)の和藤治(わとうじ)宅、21日牛久宿(現牛久市)の麻屋冶左衛門(あさやじざえもん)宅、22日阿見村(現阿見町西郷)の権左衛門(ごんざえもん)宅まで次々に打ちこわした後に、諸藩の出兵により解散しました。

    幕府は一揆の関係者を召し捕り、勇七は獄門(ごくもん)(死刑)、吉重郎と兵右衛門は遠島(えんとう)(流罪)の判決を下しましたが、3人とも江戸で獄死しています。

    文政6年(1823)、さきに打ちこわしを受けた麻屋がこの道標を建立しました。

    これには、方角の他に、供養塔を兼ねて一揆の指導者三人の没年月日・戒名・俗名が記されています。

    永く後世にこの歴史的事実を伝える道標です。

     

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