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阿見町名所百選 阿見第二小学校・本郷小学校地区(その1)

[2015年1月7日]

阿見第二小学校・本郷小学校地区

第二小学校・本郷小学校地区

JR荒川沖駅に近いこのあたりは、交通の便がよく商業地も近いことから住宅地が広がっています。
交通量も多く、陸上自衛隊の霞ヶ浦駐屯地からヘリコプターの訓練機が空へ飛び立っています。
阿見第二小学校を起点にしたコースでかつての霞ヶ浦飛行場の名残をたどり、本郷小学校から阿見町出身の小説家・下村千秋ゆかりの地を回ってみましょう。

阿見第二小学校・本郷小学校地区 名所百選(その1)

 

1 霞ヶ浦海軍航空隊跡地  2 阿見原跡  3 飛行船ツェッペリン伯号飛来の地

※各項目に貼られている地図は、名所百選の看板の位置またはその付近を示しています。

※名所百選はわかりにくいところにあるものがあります。詳しくは生涯学習課へお尋ねください。

 

1 霞ヶ浦海軍航空隊跡地

掩体壕

掩体壕(上郷)

方位盤

方位盤

【上郷他/名所百選No.42】第二小学校校校門(説明板)

阿見村の原野約86万坪に海軍の霞ヶ浦飛行場が開かれたのは大正10年(1921)のことです。

開場式には、阿見村のほか近隣在住の人々約5万人が訪れました。

イギリスから航空技術伝授のために招かれた英国飛行団によるアブロ陸上練習機(英国製)の編隊飛行や、落下傘降下などがデモンストレーションとして行われ、訪れた多くの人々を沸かせました。

海軍航空発展の地であり、当時「東洋一」とよばれた国際的な飛行場の幕開けです。

この地は練習航空隊として搭乗員を数多く養成し、山本五十六、市丸利之助など、昭和史に名を残した人物とも深い関わりがありました。

特に、航空隊の副長として着任した山本五十六は、航空殉難者を合祀するため隊内に「霞ヶ浦神社」を建立し、航空機発展の陰で亡くなった人たちの慰霊に努めました。

神社は、戦後進駐してきた米軍の破壊から守ろうと、町民有志により中郷の阿弥神社へ移築されました。

現在茨城大学農学部のあるところは、霞ヶ浦海軍航空隊の庁舎が立ち並んでいた一角です。

構内には、航空隊開隊当初にここを訪れた昭和天皇(当時皇太子)によるお手植えの松や、町の近代化遺産に指定されている方位盤や国旗掲揚塔など、当時をしのばせるものが現存しています。

そのほか、飛行場の中心にあった中央格納庫や、飛行機を空襲から守るための掩体壕(えんたいごう)も残っており、現在も所有者によって大切に管理されています。

米軍の本格的空襲に対処するために飛行場近辺に置かれていた高射砲陣地は、開発により失われました。

霞ヶ浦海軍航空隊は、阿見町だけではなく霞ヶ浦沿岸の近隣市町村にも大きな影響を及ぼしており、昭和史を語るうえでも忘れることのできない場所です。

 

2 阿見原跡

 

開田記念碑

開田記念碑

【上郷他/名所百選No.39】上郷公会堂敷地内(説明板)

阿見原は大字阿見西南方に広がっていた原野で、古くは阿見野(あみの)と呼ばれていました。

阿見村ほか周辺8ヶ村が、肥料用の草刈りや薪(たきぎ)、屋根を葺くための萱(かや)など生活に必要なものを採取したり、水田の水源地として利用したりしていましたが、阿見野と、隣接する荒川野の境界をめぐって、中世からたびたび争いが起こりました。

慶長16年(1611)、阿見野と西南の荒川野や東の若栗野の境界をめぐって起きた事件をきっかけに幕府に訴えが出され、周辺との境は確定しましたが、争いが絶えることはありませんでした。

貞享2年(1685)、この問題は幕府評定所によって一挙に解決しました。

境界や入会村の区分が描かれた絵図面と裁許状が下されたことにより、阿見野の野元である阿見村と、周辺8ヶ村の原野利用関係が明確になったためです。この裁許状と絵図面は、町指定の文化財になっています。

明治10年(1877)、和歌山県出身の津田出が隣接原野とともに阿見野の開拓に着手しました。

西洋式農具と耕作馬による開墾で、地域における農業近代化と農場経営のさきがけとなりましたが、残念ながら成功しませんでした。

津田が借地権を周辺農民に譲渡した際には、阿見原農民騒動と呼ばれる大きな紛争も起きました。

大正10年(1921)には、国が買上げて海軍の飛行場になりましたが、戦後は払い下げられて再び開拓され、現在では碁盤の目状に整備された区画に住宅が立ち並んでいます。

開田の記念碑には戦後開拓の労苦が刻まれており、往時をしのばせます。

 

3 飛行船ツェッペリン伯号飛来の地

飛行船ツェッペリン伯号飛来の地

飛来の地

飛行船ツェッペリン伯号

飛行船ツェッペリン伯号

【上郷他/名所百選No.40】陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地内(説明板)

昭和4年(1929)8月19日、ドイツの巨大飛行船ツェッペリン伯号はシベリアを横断し、北海道上空を通過して霞ヶ浦飛行場に着陸しました。

ツェッペリン博士の考案によるこの硬式飛行船は、正式にはL Z-127号飛行船と呼ばれていました。

全長235,5メートル、最大直径30,5メートルで、530馬力のエンジン5基を備え、最大速度時速117キロメートルで航行し、ヘリウムガスを利用して浮力を保つようにしてありました。

乗員は35名で、旅客を40名乗船できるようにしたアルミ材を主体とする飛行船で、ガスが絹の小袋に分けて取り付けてありました。

ツェッペリン伯号が来日した際に使用された巨大な格納庫は、「押収格納庫」と呼ばれていました。

これは、日本が第1次世界大戦に連合国側として参戦し、ドイツのユーターボーク(ベルリン南西部の町)にあった飛行船用の格納庫を賠償物件として押収したものです。

大きさは当時の上野駅がすっぽり入るぐらいの規模で、間口73メートル、奥行き240メートル、高さ35メートルで、扉1枚が990平方メートルで2枚あり、重さは1枚約40トンもありました。

当時ドイツは飛行船の建造が盛んでしたが、たび重なる爆発事故により、ツェッペリン伯号を最後に建造は中止されました。

ツェッペリン伯号が滞在した4日間で約30万人が見物に訪れ、上野~土浦間に臨時列車が運行したほか、土浦~阿見の道路は人の波が続きました。

昭和6年(1931)には、アメリカの世界的飛行家リンドバーグ夫妻も飛来し、霞ヶ浦飛行場は「東洋一」と呼ばれた国際的な飛行場として知られました。

 

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