阿見町名所百選 阿見第一小学校地区(その2)
- [2015年1月7日]
- ID:816
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阿見第一小学校地区(その2)
国道125号線沿いに霞ヶ浦を望むこの地域には、レイクサイドタウンとして広がる小高い住宅地の中に、古墳群から名木、予科練記念館などさまざまな名所が点在しています。
霞ヶ浦名産のレンコンを作っているハス田に囲まれて湖岸をめぐる道は『関東ふれあいの道(予科練ゆかりのみち)』にも選ばれており、帆掛け船やマリンスポーツのカラフルな帆を眺めながらのんびり歩いて回るのもいいものです。
阿見第一小学校地区 名所百選(その2)
44 青宿の鹿島神社 45 立ノ越古墳群とその周辺 46 中郷の阿弥神社
※各項目に貼られている地図は、名所百選の看板の位置またはその付近を示しています。
※名所百選はわかりにくいところにあるものがあります。詳しくは生涯学習課へおたずねください。
44 青宿の鹿島神社
被爆跡記念之碑
【青宿/名所百選No.13】
当神社は青宿の島状台地上にあり、祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)です。
社殿の西側の2基の円墳のうち、1号墳は直径17メートル、高さ2 .5メートルで、乱堀にあいましたが、直刀や勾玉、その他の副葬品は町で保管しています。
2号墳は直径22メートル、高さ2メートルで、付近には土師器片が散布しています。
社殿の東側にやや大型の円墳3号墳があり、直径30メートル、高さは削平されたため不明ですが、前方後円墳ではなかったかという見方もあります。
これらの古墳を青宿古墳群と呼び、いずれも出土品などから6世紀の古墳と推定されています。
戦時中は神社西側に海軍の防空壕が掘られていました。
昭和20年(1945)6月10日、土浦海軍航空隊を目標とした米軍爆撃機の空襲があり、投下された爆弾が防空壕入口付近を直撃。
避難していた土浦海軍航空隊の隊員に、戦死、重軽傷などかなりの被害がでました。
隊内で空襲を受けた人も含めると、予科練の甲種13期~16期生と教官等で戦死者281名、重軽傷119名で、大変悲惨なものでした。
現在、鹿島神社境内に碑が建てられているほか、遺体を荼毘に付した地に近い土浦市大岩田の法泉寺に戦没者之碑が建てられ、この事実を伝えています。
45 立ノ越古墳群とその周辺
立ノ越古墳群
墳頂の愛宕神社
【立ノ越/名所百選No.16】
立ノ越古墳群は、立ノ越集落の背後の舌状台地に占地し、前方後円墳5基、円墳10基、上円下方墳1基、小円墳4基、計20基からなります。
前期のものと思われる柄鏡式古墳を含め、前中後期の古墳時代全般にわたって古墳が築造されたところで、町域の古代史を考える上で貴重な遺跡です。
南方にある中郷の阿弥神社の創建とあわせ考えるべきでしょう。
また、この台地の付け根付近に中世の城跡が残っています。
これが、地名「立ノ越」(館ノ腰)の由来と考えられます。
なお、台地の先端部には八坂神社があり、250年以上前からこの地に祀られていると伝えられています。
付近の花室川にかかる柿の木橋には、伝説がたくさん残っています。
さらに、谷津をはさんで西の丘陵には戦国時代の城砦跡があり、羽成監物(はなりけんもつ)の城という伝承があります。
46 中郷の阿弥神社
【中郷東/名所百選No.10】
当社の祭神は豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)ですが、この祭神も社名も近世から近代にかけて変更したもので、いくつかの説があります。さらに「延喜式神名帳」に載せられた神社かどうか(式内社問題)をめぐって論争が続きました。
明暦3年(1657)の棟札写しでは、当社の社名は大明神となっていて、祭神については、本地が十一面観音(じゅういちめんかんのん)なので、その垂迹である武甕槌命(たけみかづちのみこと)ということになります。
江戸中期の享保~明和期の資料では鹿島明神となっています。
式内社争いが始まったのは近世中期の安永の頃からで、竹来の二の宮明神が阿弥神社と社名を変えたのに始まり、天明元年(1781)には当社も阿弥神社を名乗っています。
また、村内の熊野権現も阿弥神社となっています。
多くの葛藤を経て、文政12年(1829)に「三社とも阿弥神社を名乗ってよい、ただし、式内社を称してはならぬ。」という寺社奉行の裁許で落着しました。
当社周辺には、前方後円墳を含む立ノ越古墳群をはじめ古代の遺跡が多く、当社は郡内屈指の古社であると考えられます。
境内には、戦後、霞ヶ浦海軍航空隊から海軍航空殉職者の霊を奉斎した霞ヶ浦神社が移築されました。
当社の南方には、中世の阿弥陀三尊(あみださんぞん)の板碑も残っています。