阿見の昔ばなし その1
- [2014年12月18日]
- ID:775
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阿見の昔ばなし 01
1 権現山のハト 2 村長さんとドロボウ 3 金毘羅神社の大蛇
1 権現山のハト
むかしむかし、君島の鹿島神社の東にある権現山にハトが巣をつくって、二つの卵をあたためていました。
そこへ、久右衛門稲荷の狐が出て来て、「ハトさん、じっと巣の中にいて何をしているのかね。」
と聞きました。ハトが、「卵をあたためているんだよ。」
と言いますと、狐は、「俺にその卵をよこせ。」
とせがみました。ハトは、
「卵はわたしの子供だからやることはできない。」
と、何度も何度もことわりました。
狐はその日は帰りましたが、次の日またやって来て、「卵をよこせ。」
と言ったので、「大事な大事なわたしの卵をわたすことはできない。」
と、きっぱり断りました。
狐は怒って、「そんなら、おまえも卵も食べてしまうぞ。」
と責めたので、ハトはたまげて、南の田んぼの方に逃げて行き、困った、困ったと心配していました。
すると、そこへ一羽の鷺が飛んで来て、「ハトさん、ハトさん、そんなたまげた丸い目をしてどうしたんだね。」
とたずねました。
ハトは、「卵を渡さないと、自分も卵も食べられてしまうので困っているのです。」
と、今までのことを話しました。
鷺は、笑いながら、「なあんだ、そんなことか。心配することはないよ。
狐は馬鹿でな、なすの木にも登ることができない意気地なしなんだ。
ハトさんの高い巣には登れっこないから、安心して卵をあっためろ。」
と言いました。
ハトが喜んで巣に帰ると、また狐がやって来て、「卵をよこさないと、お前まで食べてしまうぞ。」
と、大声で叫びました。
ハトはすました声で、「卵でもなんでもほしかったら登ってこいよ。おめえさんは、なすの木にも登ることができない意気地なしだってねえ。」
と言いました。
すると、狐はぶるぶる身震いして毛を逆立て、「だれがそんなことをいった。」とどなりました。
ハトは、「鷺さんがそう教えてくれた。」と言いました。
狐は仕方なさそうに、久右衛門稲荷のほら穴に帰りました。
狐は鷺に邪魔をされたので、何とか仕返しをして鷺を食べてやろうと考えました。
さっそく、狐は田んぼに行ってたにしをたくさん取って来て、良くくだいて、おいしいスイズボ汁(たにしのみそ汁)を作りました。
狐は、鷺の所に行き、「鷺さん、あんたは大変ものしりなんだってな。
今うまいごちそうをたくさん作ったから、俺の所に来ていろんな話を聞かせてくれよ。」とさそいました。
鷺が狐の所に行くと、ごちそうの匂いがほら穴の中からしてきて、狐が中でおいでおいでをしていました。
鷺は、「狐さん、私は目が悪いから穴の中より外の方が食べやすいので、ごちそうを外に出してくれないか。」と言いました。
狐は、「しめしめ、鷺のやつ何も知らずにやって来たな。外で食べさせてから鷺を食べてやろう。」
と、ごちそうを食べ終わるのをほら穴の中で待っていました。
鷺は大きな声で、「こんなごちそう初めて食べるよ。うまいうまい。」と言いながら、全部たいらげてしまいました。
すると、北の方で山伏の吹くほら貝が、「ボー」と鳴るのが聞こえました。
鷺は、「アッ、ほら貝だ。何かおもしろいことでもあるのかな。」と言って、飛んで行ってしまいました。
2 村長さんとドロボウ
今から約百年くらい前に、舟島村島津に吉田さんという若い村長が住んでいました。
この人は、28歳の時に島津連合村戸長(当時は村長という役職はなく村のリーダー役)という役職につき、若いときから村のために尽くし、村民から信頼されていました。
34歳の時に村長の制度ができ、その時に舟島村の初代村長になりました。
その後29年間、村の基礎づくりに努力しました。人柄が明るくて村の人の面倒をよくみたので、村人から「村長さん、村長さん」と慕われていました。
ある寒い冬の夜のことです。夜中にトイレに行きたくなって目を覚ますと、台所の方で戸棚を開ける音がしました。
家の人がおなかが空いて、食べ物でも探しているのかなと思いながら、そっと台所の方に行きました。
すると、見知らぬ男の人がいたのです。
最近、島津あたりに入っているドロボウだなと感じとった村長さんは、おどろきましたが落ち着いて、「こんばんは。
寒い夜に大変ですね。おなかが空いているのだね。」と、やさしく声をかけました。
ドロボウは、あわてて逃げ出そうとしました。
すると、村長さんは、「安心しなさい。おなかが空いているだろうから、餅を食べて行きなさい。」と、ドロボウをひきとめました。
ドロボウはおどおどしていましたが、村長さんがあまりにも落ち着きはらって食べていくように勧めるので、頭をぺこぺこさげながら村長さんに近づき、「申し訳ありません。ここ二、三日何も食べていないので、村長さんの家ならばおいしいものがあるだろうと思って、夜中に来てしまいました。どうか許してください。」と、何度も何度もあやまりました。
村長さんは、ドロボウを叱ることもなく、「ここに、正月についた餅があるから焼いてあげよう。こちらに来て、思い切り食べていきなさい。」
と、ろばたで餅を焼いてあげました。
ドロボウは腹一杯になると、今までの自分の行いを村長さんに語り始めました。
村長さんは今までのことは仕方がないが、今後、そんな悪いことをしないように言い聞かせ、そっと帰しました。
その後、島津にはドロボウが入ったという話は聞かなくなりました。
村長さんは、教育や風紀の改善などいろいろなことに全力を尽くし、村の発展に努めました。
そのことが認められ、藍綬褒章(らんじゅほうしょう)という表彰を受けました。
その後、人々は村長さんの功績をたたえて、記念碑を建立しました。今でもその碑は、島津の農協舟島支所前に建っています。
村長・・・吉田貞蔵(ていぞう) 明治22年(1889)に34歳の若さで初代舟島村村長に就任し、大正6(1917)年までの28年間村政に尽くしました。
村の有志により建立された彰徳碑は、第24代茨城県知事力石雄一郎の篆額です。昭和20年(1945)6月10日に空襲を受けて碑の上部が欠けてしまいましたが、現在は修復されて大切に管理されています。
3 金毘羅神社の大蛇
その昔、八坪の池に大蛇が棲んでおりました。
八坪には八つの池があり、、これらの池は大変深くて、大蛇が棲むにはまたとない場所でした。
この池は桂川に続いていて、田植えの時期になると堰を切って、遥か下々の田んぼへ水を流していました。
日照りの時も同じように水を流して稲を大切に守っていました。
大蛇はこの池の守り神で、池の水をいつも満々とたたえさせる力を持っていました。
明治12年よりこの地に開拓の鍬を振った 鈴木安武(すずき やすたけ)は、桂川に沿って田んぼを作ることになり、八坪の池のいくつかを埋め立てて、田んぼに作り変えることにしました。
下流の田んぼを持っている人々には、大変不安でした。しかし、開拓のためにはしかたがありませんでした。
大勢の人夫がモッコに土を入れて、それを担ぎ池に投げ入れました。池は大変深く、次々と土が投げこまれました。
ある日、土が投げこまれたその時、隣の池から突然土が天高く噴き出し、水と一緒にあたり一面に飛び散りました。
大勢の人夫たちは「ワァー」と叫んで、四方に逃げ散りました。
人のいなくなったあとには、草木がうねうねと押し分けられ、遥か筑波山の方まで続いていました。
人々は、「大蛇が池の底で目を覚まし、驚いて下妻の大宝池へ移り棲んだのだ。」とうわさしあいました。
その後、安武はこの蛇の藁がたを金比羅神社の鳥居に飾り付け、豊作を願いました。
今でも祭りの時には、地区の人々によって新しく作られています。
鈴木安武(すずき やすたけ) 天保六年(1835)山形県松山町生まれ。旧松山藩士。明治12年より鈴木村(現阿見町鈴木区)開拓を行いました。