ページの先頭です

共通メニューなどをスキップして本文へ

スマートフォン表示用の情報をスキップ

あしあと

    阿見町名所百選 君原小学校地区(その1)

    • [2015年1月7日]
    • ID:809

    ソーシャルサイトへのリンクは別ウィンドウで開きます

    君原小学校地区(その1)

    君原小学校地区

    ゆるやかな起伏の多いこの地域には、豊かな自然がそのまま残されています。
    君原公民館近くの清明川沿いの田んぼでは、夏になれば蛍にも出会えます。
    阿見町特産の県銘柄産地指定・実生スイカが盛んに作られている地域でもあり、大きなビニールハウスがあちこちに見られます。
    付近の名所旧跡には興味深い伝説の残っているところも多く、そんな伝説を訪ねて回るのも故郷再発見の醍醐味の一つです。

    君原小学校地区 名所百選(その1)

     

    19 塙の不動堂   20 池ノ辺堤と弁天の祠   21 君島のひょっとこ   22 中山倉夫碑

    ※各項目に貼られている地図は、名所百選の看板の位置またはその付近を示しています。

    ※名所百選はわかりにくいところにあるものがあります。くわしくは生涯学習課へおたずねください。

     

    19 塙の不動堂

    塙の不動堂

    塙の不動堂

    タブノキ

    タブノキ

    【塙/名所百選No.8】

    当不動堂は小字池ノ辺(いけのべ)の丘陵上にあり、追原地区の真言宗蔵福寺(ぞうふくじ)に所属し、生延山塙不動尊と言われ、本尊は不動明王です。

    創立は非常に古く、東方の清明川沿いの水田地帯(池ノ辺)の歴史と深い関わりがあります。

    古くは、一面に水をたたえた池や潟は交通の難所であり、犠牲者も多かったので、塙の不動堂はこの池ノ辺を鎮護する目的で創立された、と考えられます。

    不動明王は本来、降魔(ごうま)や延命の功徳を持つからです。

    同じ目的で、弁天の祠(ほこら)やその他南北朝時代の石仏などが周辺に立てられています。

    堂内に平安期の菩薩像があったことも、不動堂の創立の古さを示すものです。

    「池ノ辺堤と弁天の祠」の記述に出てくる、君山地区から一直線に飯倉地区に延びた古代官道は、対岸のこの辺で丘陵に上り、西北にあたる追原地区の古代寺院跡付近を通ったようです。

    近世では、安産・子育て不動として、女性の参詣者が多かったといいます。

    境内には東観山から移された結界石があります。

    境内のタブノキの大木は町指定の文化財になっています。

     

    20 池ノ辺堤と弁天の祠

    池ノ辺堤と弁天の祠

     

    【塙・飯倉/名所百選No.25】

    塙の不動堂脇から飯倉地区に向かう道路の東南に、飯倉の弁天の祠が見えます。

    江戸時代の前期(寛文4年)の古絵図には、この道路を池ノ辺堤と記載してあります。地名・池ノ辺のおこりでしょう。

    現在は池の姿はなく、一面に水田が広がっていますが、この地に関するいくつかの伝説が残っています。

    第一の伝説を要約すると、「ある年の大水で村人たちが困っているとき、巡礼の娘が減水させるため人柱となることを願い出たので、水底に葬ったところ、大水はたちまち引いてしまった。娘は実は弁天の化身だった。」というもの。

    第二の伝説は、「塙の城主が士卒を率いて一面の芦原(あしはら)で狩りをし、大蛇を退治して不動尊に大蛇の霊を供養した。」というものです。

    これらの伝説は、昔の村民の心情を今に伝えるとともに、伝説以前の歴史をも明らかにしています。

    池ノ辺の地名は、東南に接する大形(古名小潟郷)の地名とともに、この地帯が潟・池といった水をたたえたところであったことを教えてくれます。

    第一の伝説は、池のかたわらに堤を築く難工事が神霊の加護により完成したことを後世に伝え、第二の伝説は、治水、開田に伴う労苦を後世に伝える目的を持つものです。

    また最近の研究は、君山から飯倉に向かう一直線の古代官道の存在を立証しています。

    官道で渡らねばならない場所は、この池ノ辺です。

    水を渡る手段は、渡船か、庶民にとっては徒歩(かち渡り)しかありません。

    この池ノ辺が通過の難所であったのは、池ノ辺とは生延びからきているという地名伝承からもわかります。

     

    21 君島のひょっとこ

    きみじまのひょっとこ

     

    【君島/名所百選No.51】

    昔から農村地域であった君島地区に、今から約150年前の元治元年(1864)の夏に突如悪疫が流行しました。

    特に子どもたちが次々と病魔に襲われ、村人たちは恐怖のあまり農作業も手につかず、その対策に相談を重ねた結果、誰ということなく「悪病神を退治するには天王様を祭るのが良い。」という声があがりました。

    当時、学問知識のある光慶という行者が、苦難を乗り越えて尾張の国(現在の東海地域)におもむき、八坂神社の御神体を迎えました。

    また、木原地区で旅人宿を経営する村人の正左衛門が、多くの村人の協力を得て、3年後に御神輿も完成させました。

    このとき、御神体も安置したので、五穀豊穣、悪疫退散と村の安泰を祈願して慶応3年(1867)6月14日から3日間盛大なお祭りが行われました。

    その後祭礼にあたり、若者達が江戸崎におもむいてひょっとこの奥義を習い、山車の上で披露してきました。

    これが受け継がれて「君島のひょっとこ」になりました。

    昭和43年(1968)、明治100年記念の際に民俗芸能を永く子孫に伝えるため「君島芸能保存会」が結成されました。

    昭和60年(1985)につくば市で開かれた科学万博にも出演し、その2年後には、阿見町無形民俗文化財に指定されています。

    毎年夏に行われる「まい・あみ・まつり」や「阿見町伝統芸能まつり」に出演し、小中学生の指導育成にも力を入れています。

     

    22 中山倉夫碑

    中山倉夫碑

    【塙/名所百選No.35】

    この碑は旧君原小学校の跡地に建てられています。

    中山倉夫は、元治元年(1864)に旧君原村塙の旧家に生まれました。

    明治25年(1892)から大正5年(1916)まで25年間学務委員として教育事業に専念し、この間収入役、村議、村長2期、県会議員2期を務めました。

    特筆すべきは、明治10年(1877)の創立以来分かれていた君原、追原、飯倉の3小学校を統合したことです。

    村長第1期目の時に統合の提案をしましたが、敷地問題と旧村感情で村を二分する紛争となってしまいました。

    対立時代の15年間に、校舎倒潰(とうかい)により追原にある蔵福寺で寺子屋教育が行われました。

    村長第2期目の時に、田崎吉太郎氏等の土地提供や整地によって、現在の碑の近くに君原尋常高等小学校が創立されました。

    君原地区は、この事業と熱心な教育者によって多くの優秀な若者が誕生しました。

    倉夫は大正8年(1919)4月県議、村長在職中に54歳の若さで急逝してしまいました。

    碑は彼の偉業をたたえ、旧君原尋常高等小学校跡地の近くに、大正13年(1924)3月に建立されました。

     「熈庶績」の篆額は、文部大臣江木千之の書です。

     

    お問い合わせ

    阿見町役場教育委員会生涯学習課

    電話: 029-888-2526

    ファクス: 029-888-0032

    電話番号のかけ間違いにご注意ください!

    お問い合わせフォーム