ページの先頭です

阿見町名所百選 実穀小学校地区

[2015年1月7日]

実穀小学校地区

実穀小学校地区

古墳や城跡の多いこのあたりには、のどかな田園風景が広がっています。
古くから人々の集まる、暮らしやすいところだったのでしょう。
中世の阿見地域は信太荘(しだのしょう)と呼ばれ、戦国大名の土岐(とき)氏の支配下にありました。
北の佐竹氏や西の多賀谷(たがや)氏の勢力が強まり、土岐氏は清明川や乙戸川の流域に出城を設けたのです。
実穀小学校を起点にして回るこのコースは、そんな歴史の盛衰を感じさせてくれる故郷再発見のみちです。

実穀小学校地区 名所百選

 

8 大久保意吉記念碑   9 下小池城跡   10 上小池城跡   11 実穀の古屋敷   12 実穀古墳群

※各項目に貼られている地図は、名所百選の看板の位置またはその付近を示しています。

※名所百選はわかりにくいところにあるものがあります。詳しくは生涯学習課へおたずねください。

 

 

8 大久保意吉記念碑

大久保意吉記念碑

【上長/名所百選No.34】

この碑は、荒川沖から江戸崎に向かう江戸崎街道沿いにあります。

意吉は、元朝日村村長大久保美敬の長男で、幕末の慶応2年(1866)に生まれました。

早くから農業に従事し、明治政府のすすめる牛馬耕による農業近代化に共感していたようです。

明治32年(1899)に、千葉県にあった御料(ごりょう)牧場からめす馬を購入し繁殖させ、明治40年(1907)には常南馬生産組合を組織し、自ら組合長として地域馬産の振興をはかりました。

また、朝日村荒川沖に種付場を設置し、大正7年(1918)には馬数630頭、年間生産馬は150頭あまりになったといいます。

さらに意吉は、ヒツジの飼育に着目し、千葉御料牧場を始め北海道月寒(つきさっぷ つきさむ)畜牧場よりヒツジを導入し、飼育繁殖に務めました。

ただし、ヒツジは飼育技術、方法が複雑であまり普及せず、外国産羊毛の価格に押されがちでした。

大正10年(1921)、この地の馬産の振興に尽くした功績が非常に大きかったため、馬政局長官から産馬功労賞を授けられました。

この碑はこの功績を記念し、昭和29年(1954)2月に地元有志によって建立されました。

碑文は元参議院議員で元馬政局長の岸良一氏の書によるもので、この地の畜産振興を知る上で貴重な碑です。

意吉はまた、村の農会長、村議、村長等多くの役職をつとめ、地方行政に貢献した人物でもありました。

 

9 下小池城跡

下小池城跡

小池城址公園

下小池城跡

【下小池/名所百選No.21】

本城跡は、東は福田地区に接し、南に乙戸(おっと)川を見下ろす台地の縁に築かれています。

総面積は15ヘクタールにもなります。

本郭は舌状(ぜつじょう)台地の突端にあり、北方に二の郭、三の郭と連なり、その外側に広大な外郭が広がっています。

本郭と二の郭の跡は土塁(どるい)、空堀(からぼり)とも保存状態は良好です。

二の郭の西の井戸坂と呼ばれる低地は、南からの敵を防ぐ虎口(こぐち)(城の入り口)であり、搦手(からめて)(城の裏門)と考えられます。

大手は舌状台地の付け根部方向で、現工業団地に接する地点です。

ここにははしごの「=」のような数条の畝掘(うねぼり)(現在は駐車場)があり、築城年代を示していました。

当城の築城年代や城主は明らかではありませんが、隣接の上小池城と福田城から推察すると、城郭の構造や規模などから、上小池城よりも新しい築城と思われます。

近くにある福田城の城主は、戦国末期に岡見(おかみ)氏から土岐(とき)氏に代わっています。

これは、土岐氏の勢力が増大する一方、その同盟軍となった岡見氏が北方からの多賀谷(たがや)氏の圧力に苦しみ、南方の諸城を土岐氏に任せる傾向を示すものです。

土岐氏もまた、多賀谷氏とその背後の佐竹(さたけ)氏に対する脅威から、福田の北の下小池に新城を築き「境目の城」としたのです。

こうしたことから、下小池城を預かったのは江戸崎城直属の城番であると思われます。

築城年代は、多賀谷氏の圧力の強まった安土桃山時代の天正初期と推測されます。

以後天正18年(1590)の江戸崎城落城まで戦闘の機会はなく、廃城となったようです。

 

10 上小池城跡

上小池城跡
お安稲荷

お安稲荷

【上小池/名所百選No.22】

当城跡は乙戸(おっと)川北岸台地にありますが、その上に上小池集落が成立しているため両者が混在し、城跡の土塁(どるい)や空堀(からぼり)はなくなり、旧城郭の構造も規模も明らかではありません。

残っている主な遺構は、主郭部の位置にあたる屋敷の中に、土塁、腰廓(主郭に付属する郭)が確認される程度です。

そのほかでは、東側畑地の崖端に台地を取巻く掘跡の一部が残っています。

「金竜寺文書」(龍ヶ崎市)にある小池城主岡見内記(おかみないき)とは、上小池城城主と考えられます。

天正初期に多賀谷(たがや)氏の勢力が南下し始めると、岡見氏は南の土岐(とき)氏と同盟し、北方の防備に全力をあげたので、小池にいた岡見分家は、北方に移動したと思われます。

このことは、当城跡の上に早くから集落が移動していた痕跡が見られること、つくば市小茎(旧茎崎町小茎)は岡見勢と多賀谷勢の激戦地(「野口豊前覚書」)とされ、近世に小茎の旧家であった小池家が小池岡見家の後と考えられることなどから推定されます。

 当城での多賀谷氏と岡見氏との戦いはなく、廃城の運命をたどったと思われます。

城跡東側の低地には「お安稲荷」と呼ばれる稲荷社があり、夢枕に現れた神の御利益信仰として知られています。

 

11 実穀の古屋敷

実穀の古屋敷
実穀の古屋敷

【実穀/名所百選No.24】

実穀集落の南方の乙戸(おっと)川の東側台地上に、古屋敷という中世の集落遺跡があります。

西方の低地からの登り口は、屈曲して城郭の入り口のようです。

各屋敷と思われるものは、東側に土塁(どるい)を構えて西側は崖になっており、さながら個別に曲輪の形をなしています。

特に南端の屋敷は、東側の土塁が厚く、西側の崖は急角度であり、さらに東には二の郭らしきものさえあります。この部分は城郭に近い構えとなっています。

地名が古屋敷ということや、全体の構造などから見て、ここは武装した集落、すなわち城砦(じょうさい)集落であったと思われます。

南端の部分の住人はこの集落の有力者で、小領主への上昇過程にあった存在で、他の住人も戦場に出る土豪的な人たちであったのでしょう。

なお、南端の部分の住人であったという野口本家は、現在でも「内出(うちで)」と呼ばれています。

これは、集落内で土塁などの構えをもつ中世の小規模な館としての性格を持つ地域にみられる地名で、町域に数か所散在しています。

野口家の古屋敷集落内での地位がうかがえる名称です。

寛永11年(1634)、領主伊達家の指導のもとに、古屋敷の人たちは現在の集落地に移動しました。

 

12 実穀古墳群

実穀古墳群

2号墳

実穀古墳群

【実穀/名所百選No.17】

当古墳群は、かつて実穀集落の西北の小字寺子付近に、7基の円墳から成っていましたが、平成7年に県教育財団により4基が発掘調査され、現在3基が残されています。

1号墳は、直径23メートル、高さ3 .6 メートルで、墳頂(ふんちょう)に石塔台石が埋まっています。2号墳は、直径18 .5 メートル、高さ4 .5 メートルで、墳頂には天満宮がまつられており、また樹高20~30 メートル、目通り4メートルの桜の大木が繁茂しています。

3号墳は直径14 メートル、高さ2メートルでピラミッド型をなしています。

発掘調査された以外の円墳4基のうち、4号墳の主体部は墳頂部に設けられた粘土槨(ねんどかく)で二人の埋葬跡があり、副葬品として直刀5本、鉄族、刀子、ガラス玉等が出土し、古墳時代後期の豪族の生活をしのばせます。

他に、古墳時代中期の6つの住居址、6号墳の墳丘裾部から五輪塔(十数基)が出土していて、全体として旧石器時代から中世までの複合遺跡と判定されました。

現在残る1号墳、2号墳のあたりは、平安時代の豪族平将門の伯父国香(くにか)の墓であるという伝説が残されています。

1号墳頂に埋もれた石塔台石(五輪塔の地輪か)といい、最近の発掘で出土した五輪塔群といい、この遺跡は、実穀の古代ばかりでなく、中世その他をも物語る貴重な遺跡です。

 

ご意見をお聞かせください

  • このページは役に立ちましたか?

  • このページは見つけやすかったですか?

お問い合わせ

阿見町役場教育委員会生涯学習課(中央公民館)

電話: 029-888-2526 ファクス: 029-888-0032

お問い合わせについて


阿見町名所百選 実穀小学校地区への別ルート

Copyright (c)  Town of Ami All rights reserved