ページの先頭です

共通メニューなどをスキップして本文へ

スマートフォン表示用の情報をスキップ

あしあと

    阿見町名所百選 君原小学校地区(その4)

    • [2015年10月23日]
    • ID:812

    ソーシャルサイトへのリンクは別ウィンドウで開きます

    君原小学校地区(その4)

    君原小学校地区

    ゆるやかな起伏の多いこの地域には、豊かな自然がそのまま残されています。
    君原公民館近くの清明川沿いの田んぼでは、夏になれば蛍にも出会えます。
    阿見町特産の県銘柄産地指定・実生スイカが盛んに作られている地域でもあり、大きなビニールハウスがあちこちに見られます。
    付近の名所旧跡には興味深い伝説の残っているところも多く、そんな伝説を訪ねて回るのも故郷再発見の醍醐味の一つです。

    君原小学校地区 名所百選(その4)

     

    30 木食上人の墓   31 阿見町総合運動公園   32 上条城跡

    ※各項目に貼られている地図は、名所百選の看板の位置またはその付近を示しています。

    ※名所百選はわかりにくいところにあるものがあります。詳しくは生涯学習課へおたずねください。

     

     

    29 神田池の夕輝 

    神田池

     

    【飯倉/名所百選No.45】

    神田池は、このあたりが仙台藩領地であった元禄時代、藩により水田かんがいのため修復されたものです。

    現在でもかんがい用水に利用されており、用水路(弁天川)は、清明川に合流します。

    池には、昔からコイ、フナ、ハヤ、その他小魚の種類が多く、すでに他の地域から姿を消した貴重なものも生息しています。

    地元では池の環境保全に努力しており、夕陽の景観もさることながら、深い静寂に包まれた池の一帯は、町内で数少ない豊富な自然を残す場所です。

    平成22年には、農林水産省が選定した「ため池百選」にも選ばれています。

     

     

    30 木食上人の墓

    木食上人の墓

     

    【飯倉/名所百選No.29】

    木食とは五穀を断ち、木の実を食べて修行することで、このような行をおこなう僧を木食上人とよびます。

    飯倉の木食上人は、土中入定(にゅうじょう)による即身成仏を実行した僧として知られています。

    江戸時代後期に、出羽三山の湯殿山修験者が土中入定をしてミイラ化した即身仏は有名ですが、伝説ではあっても、近世の史実としては当地方でも珍しいものです。

    飯倉の木食上人は越後蒲原の人で、温厚で群書に通じていたといいます。

    また歌人でもあり、「夢の世の夢とも知らずみし夢の、さめてうれしきあかつきの鐘」の辞世の歌を残しています。

    村の人たちと永別するとき、「我今与子等永訣生与死達道則一也」と述べたといわれています。

    飯倉に来る前は石川村の観音堂に住み、さらに筑波山頂で庵を結び、下山してから飯倉に住んでいましたが、関西、四国の巡拝をして求道したのち成仏しました。

    文化12年(1815)亥年10月21日入寂。入定後7日まで鐘の音が聴こえたといいます。

     

    31 阿見町総合運動公園

    阿見町総合運動公園

     

    【若栗宿/名所百選No.50】

    阿見町は交通インフラの整備や工業団地の造成などにともなって都市化が急速に進み、人口も年々増加傾向にあります。

    スポーツ人口も増え続け、町ではその需要に応じるため、昭和57年から総合運動公園を整備しています。

    現在、ナイター設備を備えた野球場3面、テニスコート6面半と第4種公認陸上競技場、フットサルコート2面、キャンプ場があり、町内外の人に広く利用されているのはもちろんのこと、郡の小中学校の児童生徒や各種団体の大会などにも活用されています。

    公園の周囲は緑豊かな樹木に囲まれた静かな環境で、アヤメやスイレンなどが植栽されている水生植物園、吉野桜や八重桜が咲きほこる桜の森もあることから、季節を選ばず来園者の目を楽しませています。

     

    32 上条城跡

    上条城

     

    【上条/名所百選No.20】

    本城跡は、南坪、東坪、堀頭坪の三集落に囲まれた洪積層台地上の台坪集落を主郭部とします。

    台坪の西端のせまい部分は堀切りされ、この台地は、水田の低湿地を巡らす舌状台地の要害を形成していました。

    ただし、諸集落が近世初期に西方の本郷の地から城跡上に移動したため、城跡の土塁や空堀の大部分がなくなり、往時の景観はとどめていません。

    城の大手は、東坪と南坪の接点を台地に上る屈曲した坂道で、この道をしばらく西へたどると、小字城の内を経て本郭跡に達します。

    旧城主の子孫、大越家裏の土塁から同分家家裏までが本郭跡です。

    構築年代は明らかではありませんが、南北朝の始め信太庄の西半分の上条地域が山内上杉領になった頃に、その上条の名を付けた城が築城されたと考えられます。

    南北朝末になると上杉領は信太庄全域を占め、家臣団(信太庄山内衆)が各地に入ってきました。

    「臼田文書」によると、大越左京亮(さきょうのすけ)や大越大炊助(おおいのすけ)に関する記事が室町前期にあらわれ、また戦国時代には、高野山の清浄心院文書の中で、上条の大越治部大輔、大越日向守、大越三河守などが供養を依頼しています。

    関東管領だった上杉氏が衰えると、西方から小田氏勢力が侵入してきます。

    大越家の系図によると、天文年間に治部大輔のとき上条城は落城し、大越家は下総に逃れました。

    信太庄山内衆の一人だった土岐(とき)家が勢力を集結して戦国大名となり、永禄初頭に大越治部大輔は当城に帰って土岐氏に仕えました。

    天正18年(1590)江戸崎城の落城とともに当城は廃城となり、大越家は帰農しています。

     

    お問い合わせ

    阿見町役場教育委員会生涯学習課

    電話: 029-888-2526

    ファクス: 029-888-0032

    電話番号のかけ間違いにご注意ください!

    お問い合わせフォーム